現地校へ転校

ハロウィンが終わり、近所の子供達との関係がうまくいってきたので、

「どうして、うちの学校に来ないのか?私が世話するよ」などと頻繁に言われることに

なりました。

みんな同じサブディビジョン内のバス停からスクールバスに乗るので、友達は多い方が

いいと、考える子が多いのです。

長女は、日本の私立校とはいえ、ほとんど英語、授業についていけてるか微妙な感じで

むしろ、日本語の簡単な宿題を大量に出されるので、時間が無駄に感じることも多く、

しかも、朝は大渋滞の中40分かけて、送迎して、小学校と幼稚園で下校時間も

異なるので、私は毎日2時間近く運転する生活でした。

アメリカでは、一般的に9歳以下の子供は留守番することも虐待になるので、

全員を常に車にしばりつけて移動している感じで、息子にとっても苦痛でした。

たった4ヶ月で現地校への転校を決意し、現地校がスタート。

息子はプリKとよばれ、2クラスしかないため、入れないとのことで、

そのまま、日本人の幼稚園にキンダーと呼ばれる、義務教育の年齢になるまで

1年近く通いました。

手続きも、お便りも全て英語、当時まだGooglelensなんかはなく、

大変と言えば大変でしたが、翻訳機能は色々あったので、大きなトラブルはなく。

知り合いも近所にいたので、一見うまくいってるように見えていました。

この学区には、アジア人が多く住んでいたこともあり、ESOLとよばれる、

英語を第二言語とする子供の補習クラスが毎日一時間あり、テストなども

ESOL用のものがあり、できるだけスペルミスや、書けないせいで、単位を落とすことがないように、準備されていました。

ただ、私はやはり不妊治療して、一生懸命、完璧な育児を目指してきたわけで、

それが、学校の説明会で、「handicap」と言われ、「accommodation」が受けられる

みたいな説明を受けて、身体的な不自由がある場合と同じように扱われることが

わりとショックでした。

ああ、私が一生懸命育てた子は、不自由な子供なんだ。みたいな気持ちに。

確かに、コミュニケーションに不自由があったんですけどね。

子どもたちは、ESOLクラスは、やっぱり大好きで、先生も「あなたたちは2つの

言語と文化を持つ、素晴らしい子供で、あなた達から私は毎日多くの事を

学んでるわ!」みたいな、いい先生ばかりで、杞憂に終わったのですが。

時間的な余裕ができたことで、生活にはゆとりができた気がしました。